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 校名

 「鯖江市東陽中学校」

沿革誌には、校名の由来が次のように書かれています。
『「東陽中学校」という校名は、昭和52年度の市内3中学校(鯖江中学校、中央中学校、河和田中学校)及び鯖江市今立町組合立の南越中学校に在籍する北中山地区の全生徒から募集した。その応募の中から昭和52年9月1日の校名審議委員会において慎重に審議して決定された。その意味は「昇る朝日のごとく活気にみちた立派な学校になってほしい」との願いがこめられている。』





 校章

『三つの角は校名の「東陽」を表す旭光を最も単純化したものであると共に、「知・徳・体の調和的発達」を意味している。特に上の角は「努力し向上発展してやまない姿」を、下の二つの角は、ペンによって「旺盛な学習意欲」と「強健な身体の錬磨」とによって実践力に充ちた人間の育成という願望を表している。また「中」の字に丸味を持たせて、「円満な人格の形成」という教育の目的を具象化している。』



 校訓
 「自主自律
」
『昭和53年4月末、生徒の実態、教師の理想とする生徒像、父兄の望む生徒像を基にして決定したものである。』

現在、体育館に掲げられている「自主自律」は、村寄鴨畦氏(福井大学(昭和59年当時))の揮毫です。






 校歌

東陽中学校の校歌は、作詞:広嶋英雄氏(東陽中学校初代校長)、作曲:小山章三氏(国立音楽大学教授(当時))です。沿革誌には、校歌成立の流れとともに、作詞・作曲への思いが記載されています。

まず作詞について
『四季折々の眺めは素晴らしく、春は緑のじゅうたんを敷きつめたような田園に囲まれ、夏は三方を囲む山々の濃い緑、秋には黄金の稲穂が重く垂れさがる、そして視界の及ぶ山々の錦繡を装った姿、冬は一面の銀世界の中に毅然として聳え立つ霊峰文殊。』(中略)
『校歌、それは生徒の、そして職員の愛する歌でなければならない。それには卒業後の生徒が、転任後の職員が口ずさめるような歌でありたいと思う。従って覚え易いことが前提条件であるから、まず一番に校地校舎の周辺を、二番に校訓を、そして三番に中に学ぶ師弟の姿を詠み、学校の栄光と発展を期すというように配列した。しかもわれわれの努めは生涯にわたって学び続けることでなければならない。その基礎づくりを学ぶ学校生活のあり方こそ霊峰文殊の姿に託したいとの願いである。』

小山氏は県中学校音楽研究大会等の指導者としてしばしば来県され、福井県の教育に貢献して来られた方だそうです。また当時の音楽科教員が国立音楽大学において指導を受けていたご縁もあり、作曲を依頼することにしたそうです。作曲が昭和53年12月18日に完成し、その後小山氏から届いたお手紙が沿革誌に引用されています。
『校歌の作曲、完成いたしました。丹精こめて作曲させて頂きました。学校のつづく限り朝な夕な愛誦されますように、心から祈念しながらお送りいたしますので御査収ください。』



体育館にかかっている校歌は、沢田白寿氏(洗心書道学院(当時))による揮毫です。



『沢田氏は別司町出身で早くから書道を志し勉学された人である。旧河和田中学校へも来られ、生徒に習字の指導をされた時もあり、また学校に対しても作品を数点、御寄贈になっているので是非この方に御揮毫を願いたいと、53年12月中旬にお願いした次第である。54年1月30日その揮毫のため、わざわざ来校された。歌詞の中にある文殊山、そして鞍谷川の情景を今一度確かめた上で書きたいとの気持ちからである。生徒は学級毎に交替して見学させた。 「自主自律」「剛健」の書も同時に揮毫していただく。』

揮毫される校歌を見ながら、往時の生徒・教職員のみなさんはどのようなことを感じていらしたのでしょう。

そして昭和54年2月20日、小山章三氏を迎え校歌発表会を開催。この日を校歌制定の日と定めました。


ちなみに、「剛健」は職員玄関にあります。



 応援歌

代々歌い継がれてきたこの応援歌は、当時の生徒自身の手で作詞作曲されたものです。作曲は第4回卒業生の山田裕美さん、作詞は第5回卒業生の井上毅さんです。東陽中学校の溢れる意気、気概がよく伝わってくる歌だと思います。




体育館後方には、東陽中学校に在職されていた西宮辨晴氏による書が掲げられています。





 沿革 準備中